2008年02月23日
表千家の歴史
非常に興味があります。
それにしてもお茶も色々な流派があるんですね。
表千家(おもてせんけ)は、茶道流派の一つ。千利休を祖とする千家の本家にあたり、裏千家・武者小路千家と共に三千家と呼ばれる。正確な門弟数は不明であるが、裏千家の半数程度であると思われる。
現在の家元は、千利休から数えて、14代目の而妙斎(じみょうさい)千宗左(せんそうさ)家元である。代々の家元は紀州藩主である紀州徳川家(御三家)の茶頭として格式を誇り、紀州徳川家と強いつながりがあった三井家とも縁があった。
宗家は京都市上京区寺之内通堀川東入にある。表千家という名は、表千家を象徴する茶室不審菴(ふしんあん)が裏千家の今日庵に比して通りの表にあることに由来する。現在不審菴は財団法人不審菴が管理している。
茶の湯の大成者である千利休(せんのりきゅう)の没後、千家は2代・千少庵(せんしょうあん)、3代・千宗旦(せんそうたん)と続いた。3代宗旦の三男である江岑宗左は、宗旦の隠居に伴い継嗣として不審菴を継承した。宗左は千家の直系を継いだわけであるが、宗旦は屋敷の裏に今日庵を建てて隠居所とした。宗旦の死後、今日庵を四男の仙叟宗室が受け継いで独立し、裏千家となった。また次男の千宗守が養子先から出戻ってきて別に一家を起こし武者小路千家となった。こうして表・裏・武者小路の三千家が成立した。
4代江岑宗左は、寛永19年(1642年)、茶の湯に造詣の深かった紀州藩初代藩主徳川頼宣の招きで紀州徳川家に仕えた。以後明治に至るまで表千家の歴代家元は紀州徳川家の茶頭として仕え、中級武士並の二百石の禄を受けた。また江岑は新院後西院より宸翰を拝領したり、東福門院より御作の香合を拝領したりと、御所や公卿らとの交流も深かった。
紀州徳川家の歴代藩主の中には茶の湯に興味をもつ者も少なくなく、6代覚々斎の時には紀州藩4代藩主から8代将軍となった徳川吉宗からは茶碗(桑原茶碗)を拝領した。後の9代了々斎の時には「数寄の殿様」と呼ばれ風雅を愛した徳川治宝の庇護を受けた。治宝は利休茶道の皆伝を受けるほど茶道に通じており、了々斎の晩年には治宝を家元とし茶事を催していた。それゆえ、治宝は幼くして了々斎の跡を継いだ10代吸江斎に了々斎から預かっていた皆伝を授ける形となった。現在の表千家表門は、治宝の不審庵への御成りにあたり紀州徳川家が建てたものである。ちなみに紀州で表千家の茶道は藩主から庶民にまで広がり、現在でも表千家の茶道が盛んである。このように表千家は紀州徳川家から格別の待遇を受けていた。現在でも、和歌山城下の和歌山市三木町堀詰橋南側には、「紀州藩表千家屋敷跡」の碑が建っており、往時を偲ばせる。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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