2008年01月31日
今生きていたら…
きっと何本もレギュラーを抱えていたと思います。
逸見 政孝(いつみ まさたか、1945年2月16日 - 1993年12月25日)は、タレント、元フジテレビアナウンサー。愛称はいっつみい(It's me)。大阪市阿倍野区出身。戒名は誠實院温譽和顔政孝居士。妻はエッセイストの逸見晴恵、長男は俳優の逸見太郎、長女はタレントの逸見愛。
フジテレビ在籍時代は主にニュースキャスターとして活躍。1988年3月31日付でフジテレビを退職してフリーとなり、テレビではバラエティ番組の司会やラジオ番組のパーソナリティなどを務めて人気を博した。1993年9月6日、極めて異例の「ガン告白会見」を行い、社会に「中年男性の働き盛りにおけるガン」という問題提起をすることになったが、3ヶ月半後である12月25日午後0時47分、ガン性悪液質のため東京女子医科大学病院で死去した。まだ48歳の若さでの早世だった。
フリー転身後
1987年に勤続20年を迎えた逸見は、管理職に昇格したことによって『FNNスーパータイム』以外の番組への出演機会が徐々に減少。「生涯、一アナウンサーでありたい」との思いが強くなり、同年11月に退職願を提出。翌1988年3月末をもって、アナウンス部副部長待遇を最後にフジテレビを円満退職。三木プロダクションと業務提携を結んだ「オフィスいっつみい」を設立(社長は晴恵夫人で逸見は平社員。現在は「株式会社オフィスいつみ」に社名変更)してフリーとなる。逸見自身はフジテレビ退職と同時に『FNNスーパータイム』の降板を希望したが、フジテレビと『FNNスーパータイム』でキャスターとしてコンビを組んでいた安藤優子の強い希望により、その後1年間のみという約束でキャスターを続けた。テレビでは『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』、『夜も一生けんめい。』(いずれも日本テレビ系)、『たけし・逸見の平成教育委員会』(フジテレビ系)など数多くの人気番組の司会を務め、「いっつみい」の愛称とその笑顔で、視聴者から高い好感度を得た。ラジオの『オールナイトニッポン』でパーソナリティを務めたこともある。『たけし・逸見の平成教育委員会』放映期には、裏番組である『クイズダービー』(TBS系)と『おぼっちゃまくん』(テレビ朝日系)が終了している。
個性がまったく異なる大物達、タモリ・ビートたけし・明石家さんまからなるいわゆるBIG3を完璧に制御することのできた唯一の人物として、また日本を代表する「名(迷)司会者」として語り継がれている。なお、逸見は著書で「『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』と『たけし・逸見の平成教育委員会』が自分にとって一番思い入れのある仕事である」と述べている。クイズ関係の仕事が晩年に続いたためか、最期の言葉は朦朧とする意識で言った「三番が正解です」だったと言われる。また、BIG3との共演に関して、「あれ(=BIG3の仕切り役)だけは絶対誰にも譲らない」と語った。また『夜も一生けんめい。』では音痴でありながらも精一杯に熱唱していた。また1992年秋に世田谷区奥沢に12億円(当時)の英国風の大豪邸を築きあげた。同時に大阪に居住していた両親を呼び寄せ、旧宅に住まわせた。
司会者としての地位を確立したこともあり、解答者として他のクイズ番組に出演することはほとんどなかったが、1993年春の『オールスター感謝祭』に、自身が司会する『逸見のその時何が!』の解答者として出演した(以降も出演する予定だったと思われるが、この時が最初で最後の出演となった)。なおこの番組で、当時、逸見の真の病状を知らなかった島田紳助は解答者席の逸見に向かって「実はガンなんです」とか「もうすぐ死にますよ」などと冗談を言っていた。逸見の亡くなった日の夜にインタビューで紳助は「ガンという重病を抱えているのに何で仕事し続けんねん。まったくのドアホですよ、逸見さんは」などと悔し泣きしながらコメントを述べた。
ちなみに1993年8月1日、目黒のカトリック碑文谷教会で催された『夜も一生けんめい。』で共演した設楽りさ子と当時ヴェルディ川崎(現在の東京ヴェルディ)の主将三浦知良の披露宴で司会を務めた(媒酌人は渡辺恒雄夫妻)。奇しくもこれが最後の披露宴での司会であった。
(以上、ウィキペディアより引用)
きっと日本の代表的な司会者だったんでしょうね!
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